<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rss version="2.0">
   <channel>
      <title>懐かしの・・・</title>
      <link>http://interxs.net/</link>
      <description>ＣＭにも歴史あり・・・</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2012</copyright>
      <lastBuildDate>Tue, 10 Jan 2012 14:40:59 +0900</lastBuildDate>
      <generator>http://www.sixapart.com/movabletype/</generator>
      <docs>http://blogs.law.harvard.edu/tech/rss</docs> 

            <item>
         <title>一升の鏡もち</title>
         <description>はじめての誕生日に一升の鏡もちを赤ん坊に背負わせて立たせるという行事は、北海道から九州まで各地にある。


地方によって、このもちのことを力もち、立ちもち、祝いもち、立ったりもち、ぶったおしもちなどといいます。


また、初誕生の日には、男の子なら筆や硯、そろばん、女の子なら、針、糸、物差しなどをならべてとらせ、その子の将来を占うこともありました。


もし、そろばんをつかめば、その子は商人になる、あるいは向いているという一種の占いです。


いまでも中国地方や四国に残っています。

</description>
         <link>http://interxs.net/2012/01/post_37.html</link>
         <guid>http://interxs.net/2012/01/post_37.html</guid>
        
        
         <pubDate>Tue, 10 Jan 2012 14:40:59 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>現在では</title>
         <description>現在では生後一か月目の検診を受けて、医師から外出許可をもらい、それから参拝するというのがひとつの流れになっているようだ。


お宮参りのさい、白い産着を着た赤ん坊を抱くのは父親方の祖母、つまり姑というのが、昔からのしきたり。


赤ん坊の母親自身はその後ろにしたがうということになっています。


そもそも、昔は、母親は自分の子どものお宮参りには参加できないものでした。


「産の忌」は東日本では七五日、西日本では100日とされ、母親はまだ忌が明けていないからと、一緒に参拝できなかったのです。


昔は、参拝し終わったあとは、その足で親せきや知人宅を訪ねてまわって、出産祝いの礼を述べたといいます。


このとき、訪ねられた側が贈ったものが、「犬張り子」です。


そして、お宮参り、100日の祝いを過ぎ、赤ん坊が一歳の誕生日を迎えると、もちを背負うというしきたりがあります。

</description>
         <link>http://interxs.net/2011/12/post_36.html</link>
         <guid>http://interxs.net/2011/12/post_36.html</guid>
        
        
         <pubDate>Fri, 16 Dec 2011 14:40:45 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>赤ちゃんのお宮参り</title>
         <description>赤ちゃんのお宮参りは多産の昔からあったのか?。


男の子は生後32日目、女の子は33日目に「お宮参り」をする。


生まれてはじめて氏神様に参る儀式で、「初宮参り」ともいう。


鎌倉時代からはじまった習慣で、足利三代将軍義満の時代、室町幕府の勢威をしめすため盛大なお宮参りが行われ、それ以後、庶民にもお宮参りの習慣がひろまっていきました。


地方によっては神前で赤ん坊をつねり、わざと泣かせて参っていることを神に知らせるなど、独特の風習もあります。

</description>
         <link>http://interxs.net/2011/11/post_35.html</link>
         <guid>http://interxs.net/2011/11/post_35.html</guid>
        
        
         <pubDate>Sat, 12 Nov 2011 14:39:32 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ゴルフ場集中度日本一　５</title>
         <description>一市町村当たりでいえば、市原市(千葉県)の２５カ所が日本一だが、その市原市ですら。


ゴルフ場の市面積に占める比率は８％。


ところが、越生町は１０・５％。


鳩山町にいたっては、なんと２０％にものぼっていました。


比企丘陵といえば、林業地帯。


木材生産がさかんだった。


ところが、外材輸入の急増などによる木材不況のため、木材生産の将来性に不安をもつ地主が、「将来、期待のもてない林業をやっているより、ゴルフ場として高い値段で買ってもいいというのであるから売ってしまえ」となって、かくのように、またたく間にゴルフ場ギンザができあがってしまったわけです。

</description>
         <link>http://interxs.net/2011/10/post_34.html</link>
         <guid>http://interxs.net/2011/10/post_34.html</guid>
        
        
         <pubDate>Tue, 18 Oct 2011 19:01:34 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ユンクの研究を追試</title>
         <description><![CDATA[ミューラーは、戸籍登録所で標本を無作為に選び、三百の結婚カップルと三百の離婚カップルの天宮図を図で示し、ユンクの研究を追試した。


結果は有意な差を示さず、ユンクの結果を示さなかったようです。


たまたま、有意な差を示す結果が報告されました。


ファーズ＝モリッシュ(1959)は、町の住所録から無作為に選ばれた結婚カップルに質問紙を送った。


彼は約35%の回答率を得た。


その回答者たちは比較的すれていないと仮定してよい。


少なくとも、彼らのほとんどが「占星術に通じている」とは思われなかった。


彼は、質問紙の回答に基づいてカップルを調和型と蔦藤型とに分類した。


74組からなるある標本では、47組が自分たちの結婚を調和型と評定し、27組が蔦藤型と評定した。


49組からなる他の標本では、33組が調和型で、16組が葛藤型でした。


彼らの誕生資料に基づいて、ファーズーーモリッシュは、調和型のカップルがたがいにトライン(120度)とセクシタイル(60度)(吉相)であるか、葛藤型カップルはたがいにスクエア(90度)とオポジション(180度)(凶相)かどうかを調べることができました。


夫婦関係にない35組からなる対照群と比べて、両標本は有意な結果を与え、その予言を確証する傾向にありました。


さらに(占星術の伝統と一致して)、金星と木星が幸せなカップルでは相互の相において優勢であって、火星が不幸カップルでは優勢でした。


＞＞本格<a href="http://www.e-aine.com" target="_blank">占いはこちら</a>

]]></description>
         <link>http://interxs.net/2011/09/post_42.html</link>
         <guid>http://interxs.net/2011/09/post_42.html</guid>
        
        
         <pubDate>Sun, 25 Sep 2011 18:11:19 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ゴルフ場集中度日本一　４</title>
         <description>これまでゴルフとは縁のなかった町の人々の中には、ゴルフ熱にとりつかれた人もいます。


また土地をゴルフ場用地に売却し、大金が転りこんだ人も少なくない。


それまでの町祭や消防、近所付き合いにみられる共同体意識は崩れだしていると、この町に生まれ育った人は心配する。


ゴルフ場ギンザは、この鳩山町をはじめ越生(おごせ)町、鶴ケ島町、小川町、寄居町、美里町、長瀞町、上里町、小川町、玉村町の一〇町。


そして玉川村、名票村、八王子、昭島、所沢、福生、青梅、秋川、秩父、入間、飯能、川越、坂戸、東松山、高崎、藤岡の２村１４市で形づくられているが、この地域のゴルフ場集中度は過密日本一でした。
</description>
         <link>http://interxs.net/2011/09/post_33.html</link>
         <guid>http://interxs.net/2011/09/post_33.html</guid>
        
        
         <pubDate>Sun, 18 Sep 2011 19:01:22 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ゴルフ場集中度日本一　３</title>
         <description>新住民と旧住民がだいたい人口の半分ずつ。


その町にすでにゴルフ場が三つもあって、さらに二つが造成中。


町はかつての村落(鳩山村)と、以前は山や畑だったところにできたニュータウンやゴルフ場とにほぼ二分割状態。


代々鳩山に住んでいる人は、「町の道路や水道など公共施設は村時代のまま。


にもかかわらず、人と車だけ増え続けていました。


自宅前の道路はほんの数年前までのんびり横断できたのが、今じゃ車の洪水」とこぼしていました。


町の能力としては、ゴルフ場を５つも持つほどの余裕はない。


とくに飲み水は深刻な問題だ。
</description>
         <link>http://interxs.net/2011/08/post_32.html</link>
         <guid>http://interxs.net/2011/08/post_32.html</guid>
        
        
         <pubDate>Thu, 18 Aug 2011 19:01:11 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ゴルフ場集中度日本一　２</title>
         <description>前回の続きです。


営業中のものがそのうち４６で、他は造成中、審査中でした。


開発業者の計画作成段階のものを入れればそれ以上になります。


それにしても７０以上が沿線一帯にあるとはひどいものでした。


埼玉県比企郡鳩山町。


ここは比企丘陵にある町だが、村から町制へ移行したのは１０年あまり前、静かな田園地帯でもあり、のんびりした空気の澄みきった緑多いところでした。


人口は１万６０００人。


ここには鳩山ニュータウンをはじめ、東京のベッドタウンとして、住宅が近年増加していました。


</description>
         <link>http://interxs.net/2011/07/post_31.html</link>
         <guid>http://interxs.net/2011/07/post_31.html</guid>
        
        
         <pubDate>Mon, 18 Jul 2011 19:00:50 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ゴルフ場集中度日本一　１</title>
         <description>ゴルフ場ギンザ(銀座)&quot;が、関東平野にできてしまっているのをご存知でしょうか。


関東平野の西端を南北に走っているJR東日本の八高線の沿線一帯が、その&quot;ゴルフ場ギンザ&quot;なのです。


この名称をつけたのは、東大助手の依田彦三郎といわれていました。


八高線と並行して走っている道路が関越自動車道。


このゴルフ場ギンザは首都圏から３０キロから６０キロ圏にあります。


１９９０年時点で、なんとこの沿線一帯にあるゴルフ場の数は７０を超えていました。
</description>
         <link>http://interxs.net/2011/06/post_30.html</link>
         <guid>http://interxs.net/2011/06/post_30.html</guid>
        
        
         <pubDate>Sat, 18 Jun 2011 19:00:08 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>あの雑誌の歴史　５</title>
         <description>『エル』誌の部数は1968年5月以降、加速度的に低下しました。


「5月」の観点から見れぽ、『エル』誌は、問題視された社会の一種の象徴のようなものです。


さらにこの定期刊行物は、出版物全体がそうであったように、六週間の発行休止の影響を受け、売価の値上げによる購買者の心激な減少をみました。


こうした多様な要因のそれぞれの役割をはっきりさせることはできないけれども、婦人読者層の減少はおどろくべきものでした。


発行部数は59万部から43万部に落ちた。


こうした売上げの低下は、すでに1966年の市場調査の結果から考えられてきたある種の決定を一気に押しすすめました。


『エル』誌は、第三の変貌を遂げました。

</description>
         <link>http://interxs.net/2011/05/post_29.html</link>
         <guid>http://interxs.net/2011/05/post_29.html</guid>
        
        
         <pubDate>Sat, 07 May 2011 18:25:48 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>あの雑誌の歴史　４</title>
         <description>こんばんは。またもや前回の続きです。


彼女たちは、十分たちに自己を再発見させてくれることを、婦人向出版物に期待していたのです。


イメージとしての女性は、一連の隠喩でしかなかった。


女性というものをいかにして生物学的に、社会的に、情念的に定義すべきであろう?


これが、ピュブリシス調査が《新しき身分の要求》と名づけていたものを通して出現してきた問題でした。


こうした婦人向雑誌に割り当てられた新しい使命は、やがて変化の特徴の一つとなってゆくであろう差異の中での平等への意志を反映していました。


売上部数の減少は、婦人読者の増大する不満感を翻訳していました。
</description>
         <link>http://interxs.net/2011/04/post_28.html</link>
         <guid>http://interxs.net/2011/04/post_28.html</guid>
        
        
         <pubDate>Tue, 05 Apr 2011 18:25:11 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>あの雑誌の歴史　３</title>
         <description>『エル』誌は、モードを表現し、啓示はするが、それを要約してはいないのです。


《真面口な話題》への期待についていえば、それは、インタビューされた女性の中にある自らの価値の増大への要求と同時に、人間形成への要求として翻訳されます。


そこには、《婦人雑誌の中に託されたほとんど教育的な期待》といったものがあったのです。


インタビューされたごくわずかな婦人読者だけは婦人向出版物といったものの完全な廃止の意向を述べたが、ほかの人々はそれらに新しい機能を期待しつつその存在を擁護していました。

</description>
         <link>http://interxs.net/2011/03/post_27.html</link>
         <guid>http://interxs.net/2011/03/post_27.html</guid>
        
        
         <pubDate>Mon, 07 Mar 2011 18:08:33 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>あの雑誌の歴史　２</title>
         <description>女性たちは、イメージとしての女性という伝統的女らしさのこの終局的到達点を乗りこえて、自らを再定義しようという欲求をますますつよく感じていたし、彼女らの雑誌がこうした新しい要求を直視するのに不適格であることを感じていました。


イメージへの女性の還元は、したがって、きわめて両面価値的なものでした。


当時表明された(ピュブリシス調査)ような、『エル』誌を面白くなかったとする理由は意味深い。


★この雑誌を選んだ動機

モード、81%。


真面目な話題、71%。


実用、57%。



★面白くなかった理由

表面的である、68%。


ゴシップ的です、57%。


モードは依然として優勢でしたが、その役割自身は相対化されました。</description>
         <link>http://interxs.net/2011/02/post_26.html</link>
         <guid>http://interxs.net/2011/02/post_26.html</guid>
        
        
         <pubDate>Sat, 05 Feb 2011 18:08:08 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>あの雑誌の歴史　１</title>
         <description>エルの歴史＾＾


『エル』誌の紙面で、これでもかとばかりくりひろげられた女性による女性の心の幻惑については、恐らくハ潜在的同性愛性》を云々することさえできるだろう。


もはやすでに、それは《女性同士問の》世界ではなく、《女性のための》世界です。


この世界は、今姿をあらわそうとしつつある《女性による》世界を、萌芽として含んでいた。


このような結びつきは、当時まだ、女らしさの男性的表現(美、若さ、魅力)の白己再所有化にしか依存していなかったのであり、「女が女であること」の追求に依存はしていなかりたが、それでもそれは「女が女であること」の追求の場を準備してはいた。


しだいに女性は、特殊な社会階層として認められるようになっていました。

</description>
         <link>http://interxs.net/2011/01/post_25.html</link>
         <guid>http://interxs.net/2011/01/post_25.html</guid>
        
        
         <pubDate>Fri, 07 Jan 2011 18:07:36 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>生き物のことを・・・その７</title>
         <description>「生物多様性の保全」という思想が、活動的な一部の市民と中央の省庁だけでなく、日本のすみずみまで、どこででもふつうに通用するようなものにならないと、レッドリストの植物の将来は暗い、もう手遅れかもしれないという危機感を強く感じた一瞬でもありました。

花鳥風月を尊び、自然とともに生きてきたはずの祖先の心を、経済の成長を急ぐあまり、今の日本人は受け継ぐことができなかったのでしょうか。

そんな思いも、一瞬心をよぎった。

しかし、冷静に考えてみると、すべてが失われ取り返しがつかない、というまでには生き物の喪失は進んでいない。

病は重いですが、今からでも決して遅くはないのです。</description>
         <link>http://interxs.net/2010/12/post_23.html</link>
         <guid>http://interxs.net/2010/12/post_23.html</guid>
        
        
         <pubDate>Thu, 16 Dec 2010 12:03:28 +0900</pubDate>
      </item>
      
   </channel>
</rss>

